母子の密着を切ることが父親の役割であることを前回書きました。生物学的には男性は精子の提供だけでいいわけですから(それさえも冷凍精子バンクのおかげで必要がない)、何によって父親として認めてもらうかが大事になってきます。
仕事の長時間労働によって家族内の父親不在を言われて久しいですが、そのような父親でも存在が認められるのは、給料の運び手としてだけ期待されているわけで、前にも書きましたように、家族メンバー同士が演技をしつつ、お互いの葛藤を避けて、冷たい優しさで家族を維持しようするからで、なぜかと言えば、家がメンバーにとってとりあえず帰る場所、誰にも邪魔されなくて衣食住のついている場所として維持して欲しいからです。それを乱す家父長父より不在の父であってくれればいいのです。
しかし不在の父親は無関心父ですが、一見物分かりがあるような父も、実は叱れない父親です。書いたように父親の役割は、母子の癒着を切ることで、家族に社会のルールの風を入れ、子どもの社会性を育てていくことです。
ですので、友だち父子というのも一見微笑ましく見えますが、それは父子の間に異質なものを入れませんので、癒着する母親の延長でしかありません。
かといって、暴力、説教だけの厳しい父では、子どもは恐怖と反感、屈辱しか感じません。
事実、生きづらさを抱える人(AC)の心の中にある厳しすぎる超自我、罪悪感や、DV男性の暴力はこのような暴力父が内在化されていて、受け継がれていることがが多いのです。
家の中で引かれた掟ルールを破ってくる子どもを全面的受け入れるやさしい父親を通してから、子どもはこの人を父親と認め、その人に従おうとし、それによって社会性が身についていきます(このようなやさしい父のことを「想像的父」(pere imaginaire)といいます)。
このように、妻に安心して子育てが出来る環境を与え、子どもに安心安全感を与えることで、男性は父親として承認されるわけです。