家父長制度を考える
都市の中の家族は、孤立して、自己完結的で、自己愛的になり、そして対人恐怖的になります。その結果が引きこもりという社会現象を生み出しているというのは前回書きました。
目次
母子密着の必然
さらに都市型家族は、少子化核家族化が進んでいますので、長時間労働で夫を取られた妻の空虚感は、母親として子どもに過剰に干渉し精神的に癒着していきます。
現代家族の価値観
そのような母親の元で育った子どもは、その母親の価値観の影響をもろに受けます。その価値観とは、現代の市場論理、つまりいくら金を稼ぐかという価値観を受け継ぎますので、勉強さえできていればいいという人生観を持ちます。
極端に経済的自立(金が全て)だけが目的化し、情緒的自立は疎外されています。そのような、お勉強少年たちが大人になっていきます。
長時間労働からの父親疎外
この母子ども癒着を切るのが父親の仕事なのですが、男性も長時間労働、仕事依存などの会社の論理に縛られて、給料は入れるものの、ヘトヘトに家に遅く帰ってきて寝るだけの生活になります。
この父親をどう家族の中で機能させるのかということが重要になるのですが、巷で言う父権の復活というのでは、益々父親は孤立してしまうでしょう。
またフェミニスムの人たちがいうような家父長制度だけを悪者にもできません。
家父長の必然
実は家族は家父長的にならざるを得ません。
テオネニー(幼形成熟)
幼形成熟(テオネニー)という言葉ありますが、人類は文化が発達する中でどんどん身体は幼児化していきます。女性の体はその意味でも男性よりテオネニーが進んでいます(男性より小さい身体、高い声、柔軟な身体、少ない体毛など)。 このテオネニー化は家父長制度の中で、女性が生き残るために進んだと言われています。
端的に言えば男性に気に入られるためにそのような体形になったと言えます。とんでもないとフェミニズムの人なら言うでしょうが、単に父親が威張って、家族のものを搾取するというのではなく、父親はそのような母と子どもの癒着を切るために必要なのです。
父の役割
現代の家族では、どうしても母子の密着、癒着によって、その母親の自己愛の投影を受けて、子どもたちも自己愛の肥大を起こし、その幻想を持ったまま大人になっていくと、何か人生上のトラブルになったときに、自分の自己愛の中に引きこもるか、癇癪を起して相手をコントロールするか、それが上手くいかないと切れて相手に暴力をふるったりします(心理学では、自己愛的憤怒といい赤ん坊の泣き叫びと同様の退行を示します)。
そのような母子の密着を切るのが父親の役割になります。
父親は不要なのか
すでに現代では、技術的は、地球上の女性を妊娠させる分だけの冷凍された精子があるそうです。では父親不在のままでいいかというと、そうではありませし、また父権の復活と言って昔のような父親の強権を振るうことも見当違いです。
母親は生物的な繋がり、父親は社会的つながり
母親と子どもの関係はいわば自然な関係です。生物的に自分のお腹の中から生まれた子どもとの絆は確かなものです。動物的言えば母親だけがいれば子どもは育つでしょう。
しかし人間の場合は、父親が、この自然な関係、癒着し一体化する母子関係を切って、二者関係から三者関係にしていく重要な役割があります。
正と邪を分ける父
二者関係は自己完結的で自己愛的なので、そこに父親の存在が入ることで、三者関係つまり社会性やルール、正邪を子どもは身に着けます。
それは、抽象的な作業で言語によって行われるものです。これが他の動物から、人間を分けるものでもあるわけなので、父親の存在は人間になるために必要なのです。
妻と子どもから認められる必要がある父
しかし父親は、そういう意味ではその子どもが父親の子どもであるかは分からないわけです(今は遺伝子診断が出来ますが)。それくらい父親と子どもの絆は弱いのです。
夫が妻を信頼し、自分の子どもであると信じることが必要であって、それは逆に言えば、妻と子どもから父親だと認めてもらう必要があるわけです。 ただ暴力的、強権的な男が父親であるとは認められませんし、子どもはそのような環境では成長はしていきません。
生物学的には男性は精子の提供だけでいいわけですから(それさえも冷凍精子バンクのおかげで必要がない)、何によって父親として認めてもらうかが大事になってきます。
不在の父の存在理由
仕事の長時間労働によって家族内の父親不在を言われて久しいですが、そのような父親でも存在が認められるのは、給料の運び手としてだけ期待されているわけで、前にも書きましたように、家族メンバー同士が演技をしつつ、お互いの葛藤を避けて、冷たい優しさで家族を維持しようするからで、なぜかと言えば、家がメンバーにとってとりあえず帰る場所、誰にも邪魔されなくて衣食住のついている場所として維持して欲しいからです。それを乱す家父長父より不在の父であってくれればいいのです。
友だち父の本音
しかし不在の父親は無関心父ですが、一見物分かりがあるような父も、実は叱れない父親です。書いたように父親の役割は、母子の癒着を切ることで、家族に社会のルールの風を入れ、子どもの社会性を育てていくことです。
ですので、友だち父子というのも一見微笑ましく見えますが、それは父子の間に異質なものを入れませんので、癒着する母親の延長でしかありません。
家族連鎖される父の暴力
かといって、暴力、説教だけの厳しい父では、子どもは恐怖と反感、屈辱しか感じません。事実生きづらさを抱える人の心の中にある厳しすぎる超自我や、DV男性は暴力が内在化されていて、このような暴力父から受け継がれるのがほとんどです。
やさしい父
家の中で引かれた掟ルールを破ってくる子どもを全面的受け入れるやさしい父親を通してから、子どもはこの人を父親と認め、その人に従おうとし、それによって社会性が身についていきます(このようなやさしい父のことを「想像的父」(pere imaginaire)といいます)。
このように、妻に安心して子育てが出来る環境を与え、子どもに安心安全感を与えることで、男性は父親として承認されるわけです。
家族が家父長制になる理由
サルと人とを分ける最大のものが父親の存在理由です。フロイトはこれをエディプスコンプレックスという言葉で説明しました。エディプスコンプレックスとは、ギリシア神話のオイディプス王から取ったものですが、要は、子どもが父親の妻を欲しがることを禁止することです。
近親相姦の禁止
これまでずっと書いてきたように、母と子どもは放っておけば、自然と融合が強くなりますので、子どもは母を自分のもの(母とセックスをしたがる)としたくなります。これを禁じているわけです。これは近親相姦の禁止でもあります。
ヒトとサルを分けるもの
これを固く禁じ、それを破るものの罰は去勢(オチンチンを切り落とす)でされます。この恐ろしさのために子どもは母親との癒着を諦めるわけです。さらにそのような気持ちを持った自分に対して、罪の意識(原罪)も埋め込まれます。この原罪意識こそ、人倫(人の道)であり、サルと人間を分かつものだと考えました。
家族が発展して地域になる
これによって、男の子は母との融合を諦め、家を諦め外へ女性を求め、女の子は大事な贈り物として外へ出されます。このように近親相姦をさけることで、親族が広がり、それが地域社会になっていったわけです。
家族は親族、地域、さらに地域文化と密接に結びついているわけです(現代家族はこの部分を捨ててしまって不自然な形で家族をやっていることになります)。
しかし、この原罪が埋め込まれるときに、父親から息子への暴力、娘への近親姦が行われてもいて、それは歴史上ずっと見過ごされてきていました(問題とされなかった)。
父親からの暴力の発見
もし、このような暴力が内在化されれば、不合理までの罪悪感、懲罰的な超自我になっていくことは容易に想像できます。 これが現代になりようやく問題になってきた、つまり‘子ども’が発見されていったのです。
子どもへの暴力虐待が明らかになってきたのは、戦争が終わってからです。国家が暴力を肯定している時代には家族の中で暴力が行われていたのです。
このように人間の家族にとって、家父長制は必然ですが、暴力を内在します。暴力が子どもへ向かうとき、その子どもはトラウマを抱え、家族連鎖していきます。この暴力が諸悪の根源です。
現代の家族は、父親の役割を保ちつつ、家族から暴力を排除していくことを目標にしていくことになります。