臨床心理と宗教

否認の病

今回は、少し深い話になりますが、心理セラピストと宗教の関係について書いていきます。

臨床(clinic)のもともとの意味

臨床clinicという言葉は、もともと、神父や牧師が臨終の病人が、創造主の元へ行くとき、その霊魂を手引きをする機能を指していたそうです。なのでclinical 臨床とは、死の床に臨むという意味があるそうです(注1、2)。西洋であれば、神父や牧師の役割であり、日本でいえば僧侶が行っていた役割でしょう。

宗教の衰退と精神分析の台頭

しかし、産業革命以後、経済が発展するにつれて、死が人々から遠くなり、さらに、神頼みしなくても、人間の生活が豊かになっていったために、聖職者の役割が小さくなっていたのでしょう。宗教の力が弱まっていくのと19世紀末に、神父や牧師の代わりに、精神分析が出てきて、心の病を持った人が、精神分析医に話をするようになったのは、偶然ではないと思います。実際、一対一で患者がセラピストに自分の悩みを話すというスタイルはカソリックの告解のやり方とほとんど一緒です。

臨床とは霊性を扱うこと

なので、clinicとは人間の霊魂、霊性、スピリチュアリティを扱うという意味だと思います。元々、臨床心理セラピーにはそういう宗教的な面を含んでいます。

では、人間の霊魂、霊性扱うとはどういうことをいうのでしょうか。

それは一言でいえば、人が死に臨むときの、孤独、寂しさ、混乱のことだと思います。人が感じる、寂しさや孤独とは、つづめて言えば、死の恐れ、不安に集約されるといっていいでしょう。それを扱うのが臨床心理のもともとの仕事だと思います。

心の病気はなぜ起こるのか。

心の病気は、必要があって起こっています。それを簡単に外せないのは、それを外すと、もっと困ることが起こるから心の病気という防衛を取っていると考えます。

例えば、アルコール依存症、なぜアルコールにあれほどまで耽溺するかといえば、素面の自分がみじめすぎて、直視できないので、アルコールで得られる、多幸感や万能感が手放せなくなるのです。依存症は否認の病と言いますが、概ね、心の病気はそういう面を持っています。その否認をはがしていく、そして孤独で、寂しくて、みじめで、怯えている自分と対面していく作業が心理セラピーです。

否認したままでは、真の自分には出会えません。ずっと嘘っぽい、虚偽の人生を歩むことになるからです。

旧約聖書の中で描かれている“否認”

人間の否認が昔からずっと扱われていて、その例を挙げてい見たいと思います。ここで、旧約聖書が語る否認の場面を見てみます。

アダムの否認

知恵の実

アダムが、神から食べてはいけないと言われた、エデンの園の木の実を食べてしまい、ばれることを恐れ、神に対面できずに、身を隠して、さらに、エヴァに言われたから食べたと嘘をつく場面です。

〇その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムとその女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。

「どこにいるのか。」

彼は答えた。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

神は言われた。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

アダムは答えた。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

(創世記3章8節~12節)(注3)

アベルの否認

それと、アダムの息子たちのカインとアベルの話です。兄カインが弟アベルに嫉妬をし、弟を殺したとことを神に問われて、否認するところです。

〇主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのであれば、顔を上げられるはずではないか」」・・・(略)・・・・・・

カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。

「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

カインは答えた。

「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(創世記4章4節~9節)(注3)

アダムとカインの否認の場面です。

人は正直には生きられない。

人は、自分に正直に生きることができず、否認をして、自分を正当化します。それは旧約聖書に書かれている時代から、人は否認する(他人に、そして自分に嘘をつく)ことが罪であるといわれています。このほどさように、人は正直に生きることができないのではないでしょう。素になって、みじめになったと思っている自分の人生を生きることが、わたしたちには難しいのです。

臨床心理セラピーも、正直になることをクライアントに強いる面があります。そしてそれがどんなに難しいことかをセラピストは知っています。(セラピストが正直であるというのも前提条件としてあります。)

正直に生きることが幸せの人生をつかむ鍵

しかし、逆説ですが、そのありのままの自分がどういう自分かを認めて、受け入れていくことで、その自分が与えられた環境の中(たとえ毒親にそだてられたとしても)で、その人にとって一番いい生き方ができるということです。

そのお手伝いするのが臨床心理セラピストのお仕事でもあります。

ここで先ほどの旧約聖書に戻りますが、もし、カインが主に向かって「はい、わたしは弟アベルの方がひいきされているのを見てとても嫉妬をしています。どうして主は私の献げ物ではダメなのでしょうか。」

と答えていたらどうなっていでしょう。

もしも・・・

またアダムが「わたしも神のように賢い人間になりたいのです。」

と答えていたらどうなっていたでしょう。

当然、神は、許したのだと思います。

旧約聖書には、その後アダムもカインも追放はされますが、その神から与えられた環境の中で、ベストの生き方をどう生きるか(聖書的に言うなら神のみ言葉に見合った生き方)を神から試され続けてるからです。

セラピーがお手伝いすることとは。

現代社会では、自分を環境に適応させて生きて行くことには求めらえるものが多く(学歴、経済力、語学力、コミュ力などなど)ますますハードルが上がっているように見えます。その高いハードルをどう超えたらいいのか、戦々恐々としているように見えます。

この社会の要求に過剰に適応して“意識高い系”を目指すのではなく、かといって、世間を完全に無視してわが道を行くになるわけでもなく、自分にあった環境を見つけて、自分の素質や性格、体質を生かして、自分の人生を自分らしく、自分のベストのシナリオで生きて行くにはどうするかを、大崎セラピールームではお手伝いさせていただきます(注4)。

参考文献

(注1)『幼児期と社会 1』E.エリクソン、みすず書房、1977年

(注2)『現代精神分析2』小此木啓吾、誠信書房、1971年

(注3)聖書 新共同訳、日本聖書協会、1987年

(注4)『残酷な世界で生き延びるたっちひとつの方法』橘玲、幻冬舎文庫、2015年

この本の中に、「ロングテール」(恐竜のシッポ)理論という考えが紹介されている。フラクタル理論の一種で、雪の結晶はもとの結晶と同じ形をしているという考えである。人生を生きて行くうえで、使うその人の能力や才能、才覚は、ひと昔であれば、就職する、仕事をするということは、大きな組織に入って、その序列に入りその座席争いをすること(例えば大企業に入って年功序列の序列に入ること)と考えられていたし、そこから外れて生きて行くにはそうとうの才能や技能を持っている人と考えられていた。が、現代のインターネット社会において、大きな恐竜の頭になる必要はない。その大きな恐竜の尻尾も同じ形(同じ形の頭と尻尾を持っている)を持っているので、自分にあった尻尾(ニッチな環境)で頭になって生き抜いていくことができるという主張である。要は牛の尻尾ではなく、鶏の頭になれ(鶏口となるとも、牛後となるなかれ)、という考えである。現代のサバイバルスキルとして重要な考え方だと思われるがいかがだろうか。

ロングテール