私、自信がありません

私、自信がありません

セラピーに来る人にどういう自分になりたいですか、と聞くと、「人の顔色ばかり見て、自分の意見が言えなかったり流されたりするので、人の意見に流されない、顔色を窺わない、不動の自信をもちたいです。」と答えるかが多くいます。

また「頼まれたときに、いやだなとおもってもノーと言えません。」逆に「人にお願いしたり、頼んだりすることができません。自分で抱え込み過ぎて、いっぱいいっぱいになり、結局人に迷惑をかけてしまいます。」という訴えも多く聞きます。

このように自信のない方が多いので、世間でも自信の付けるには、自信を持つにはという本や情報が溢れていますし、自信をつけるためのセミナーも流行っているようです。

あれこれ悩むことが神経症へ道

このように、自分の言うこと、行うことが、こうなるのではないか、ああなるのではなか、人から嫌われるのではないか、人に迷惑をかけるのではないか・・・etc、このように、そうであるかどうかもわからないものをあれこれ考えて、エネルギーを使ってしまい空回りしている状態を神経症的といいます。

心が葛藤的(conflictual)な状態のことをいいます。現代人は多かれ少なかれ神経症的になっていますが、人生の生きづらさの正体の一つがこのような状態かと思います。

本来であれば、いちいちその働きを意識的な努力をしなくてもできることが(食べる、寝る、排泄するも含め)スムーズにいかなくなっている状態が神経症です。

健康な心の状態とは?

ですので、自由に、自然と、のびのびと食事が出来て、熟睡出来て、快便して、快活に人と話が出来る人は健康ということが言えます。で、人類の約200万年の歴史の中で、自然と人間の身体はこのように健康な方向に向くように進化してきているわけで、快食快眠快便快性が出来れば、つまり身体にとって気持ちいいことを続けられることで、人間は幸せに感じられるようになっています。

このような考えをヘルシープレジャー(healty pleasure)と言います。今流行りのSE(ソマティックエクスペリエンス)やマインドフルネスなどはこの考え方が元にあるのだとおもいます。

葛藤からの自由になることが自信につながる

このような葛藤状態をどう解決するのか、前回も書いたように、自律がキーワードになります。自律とは自然で自動的(autonomous)は営みであり、意識的な努力を払うことなしに円滑に行われる営みのことをいいます。それは同時に、自立(self-standing)や自主独立、さらには自己実現、などの意味を含みます。意識的な努力から独立した安定した動揺しない自動的な精神機能のことです。

このような状態のことを、みなさんは、「自信」という言葉と同じじゃないかと思われるのではないでしょうか。で、もともとはこのような自律性への指向は、人間に備わっているものです。このように自律性を獲得して、保持する精神機能を葛藤からの自由(conflict-free)といいます。

自律と自信は切り離せない

そう考えるとなにか自信がわいてきませんか。人間は自然の流れに任せて、身体にきもちがいいことをしていれば自然と健康になる、幸せになるということですから。元々備わっている自律性が十分に発揮できてないだけなんだと思えれば気が楽になるでしょう。

何か自分の人生の高い目標を設定してそれに向かって、無理な努力をして目標を達成するという考えをしなくていいのですから。

神経症的な心は、煩悩(ぼんのう)という

仏教では、上に書いた神経症的な心の葛藤の状態を、無明(むみょう)=煩悩(ぼんのう)といいます。心が迷っている状態です。昔からこのような状態をどう解決するか偉いお坊さんたちは悩んで、修業をして、悟りを開いて人々の教えを説いたのだと思います。

昔は、お坊さんが修行をして、お経を読んで煩悩からの解放を説きましたが、現代は、セラピストが心の葛藤を解決するお手伝いをするようになりました。