不安について

不安について

様々な症状は、実は思春期の自立の失敗に起因していると、前回書きました。その中で、大きな要素が、“不安”です。今回はこの不安について解説しようと思います。

現代の不安

精神分析を作った、S・フロイトの労力の多くが、この不安の解明でした。不安に対して様々な心理的防衛あり、その代償として神経症になると考えました。不安とは何かを理解することは、S・フロイトにとって神経症を解明するための大きなテーマだったのです。

現代では、その不安も、なにか具体的なことが不安だというよりも、漠然として、落ち着かなくて、焦燥感に駆り立てられていて、かといって集中力は散漫で、よくわからないけど不安、心配、将来もよくないことが起こりそうだという思いにとらわれている、漠然とした不安です。さらに、身体的にも自律神経系が乱れて、胃腸が悪い、眠れない、動悸がする、あちこちが痛い不定愁訴、疲労感が抜けないなどの様々な身体的不調を訴えます。

患者アイデンティティ

医者に行けば、様々な、不調や症状に大体が神経症という病名が付きますし、内科や整形に行けば身体の不調には病名が付きます。それをどうしたらいいかとあれやこれや、悩みを悩みで解決するような状態がますます悪循環に陥り、病膏肓に入れば、うつ病にも、統合失調症をつけられるところまでいきます。神経症は精神病の大本と言っていいでしょう。

そうなると病気がアイデンティティになっていき、珍しい病状、重い病状であればあるほど、自分はほかの人とは違う特別なのだという、自分の自己愛を満足させて行くので病気から離れられなくなります。これを患者アイデンティティ(patient identity)といいます。

このような状態を総じて、仏教でいう“迷い”つまり“煩悩”と同じである、と以前書きました。

不安の原初

この不安は、赤ん坊が母親以外の顔を見て泣くことが原初です。赤ん坊が母親の顔を期待した時に、母親とは違う顔が現れると、不安を感じて泣きます。そこには母親の顔を認識している(識別)ことと予測(母親の顔が現れるだろう)する心の発達をしているという意味でもあります。

そしてその不安に対して備える現実検討が行われます。不安は危険に対する信号として感じられて、それに備えることができる(現実検討)の能力も発達するということです。

不安に備えて、対処ができて、不安が解消されるということが体験されることで、主体性も育っていきます。

現実的不安

現実的な不安に対して健康的な人であれば、建設的な不安に対する対処の態度がとれてるのですが、上のような漠然とした不安にはこのような健康的な対策が確立されず、常に不安にとらわれ、主体性の能力もさがります。このような不安を神経症的不安といいます。

これは現代的な不安であって、20世紀の実存主義はこのような不安をどう克服するかというが哲学的なテーマがでした。

心理学でもE・エリクソンは思春期における「自我同一性の拡散」といいましたし、文学ではJ・Dサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の主人公ホールデンはこの自我同一性の拡散に悩む青年の物語です。

映画でいえばアメリカンニューシネマと言われるジャンルは、親が押し付けてくる常識や制度に反抗しつつ、どう自立し大人になっていくかという若者ヒッピーたちを映画いた物語が多く作られました。

神経症的不安

すこし社会学の話になりますが、戦後、日本が豊かになり、食料がない、生きる、死ぬという現実的な問題が克服され、生活が安定してから、神経症にかかる人が多くなったという事実があります。

当たり前の話ですが、食べるものがないという時代に、摂食障害は現れません。物質的な安定を獲得によって、生活が安定し、幸福になったと思ったときに神経症にかかるという逆説が生まれます。真の不安の不在が神経症を生み出します。

人生の課題に失敗しようが、達成しようが、そこへの達成の執着に価値が見いだせなくなり、虚無状態になり、安定の代わりに退屈に覆われているわけです。

不安の不在が神経症になる

この漠然とした神経症的不安を、現実的不安に戻していくこと、その下に隠れている、孤独、自分は有限な存在であること、つまり死があることを自覚することが、セラピーする過程で生じてきます。(これは実存主義的テーマでもあります。)

セラピーを受けると返って、真に不安になるのです。ですが、それは建設的な現実的な不安なので、将来に向けて準備したり、努力したりする自分の人生に向き合うことができるわけです。