本当の“自分”の見つけ方

自分が分からない

前回は不安について書きました。S.フロイトは神経症の元にある不安の解明に務めました。不安の解明は心理療法にとって大きなテーマです。

“自分が分からない”=“自分探し”は歴史的な現象

前回は、悩みを悩みで解決しようとするような“神経症的不安”について書きました。現代は、世の中が安定して、衣食住に困ることがなくなることで、“死”が遠くなり、それによって、漠然とした不安が覆うようになりました。

死ぬ危険はなくなりましたが、その代わり、何をやっても意味が見いだせない、虚無、空虚感、意欲のなさ、が覆うようになりました。

“自分が分からない”は思春期の病

そこから、青年たちの、不登校や、中退、就職をしない、目標もなく、ブラブラして無益に人生を暮らす、という現象が現れてきて、それが現代のフリーターや引きこもり、ニート問題とつながっています。そしてあえて書きますが、現代の“発達障害”流行りにもつながっています。

急激な都市化がもたらす、心の空虚感

さらに現代の産業工業化、都市化、流動化に、合わせた適応が求められて、今まで人間関係の中で培ってきた関係や交流を、機械やテクノロジー、都市においては福祉が代行するようになっていき、ますます、人間疎外、人間関係の希薄化が進みました。

“自分が分からない”ことをアイディンティ拡散(E.エリクソン)という。

アイデンティティを自己同一性と言ったりしますが、この自分が自分であることの確認や確信があやふやになっていきます。これをE.エリクソンはアイデンティティ拡散といったり、このように自分の将来の決定を遅らす若者をモラトリアムといいました。

“自分がない”は“自己責任”では解決されない

現代はこのモラトリアム期が、ずっと長くなってきて、一生モラトリアムだという人が出てきて言わるけです。引きこもりの50‐80問題、一生フリーター(派遣労働問題)、晩婚化(少子化)問題、もこの60年代から出てきたモラトリアム問題の続きです。

引きこもり問題というのは、このように、個人の問題だけではなくて、現代文化、社会的問題にも大きくかかわっているので、個人の自己責任にすべて還元すべきではない問題です。

自分がいけないから、こうなったんだ、だから自分で何とかしないといけない、という自己責任論は、自分の失敗やしくじりをすべて自分が悪い、だから自分はダメなんだと自分にすべてをしょい込むことになり、結果として自己評価、自尊心が下がり、力がでなくなります。しょせん、自分はダメだから、自分は何をやっても失敗するからという思考が染みついてしまいます。

しかし、同時に、このような現代社会で、どのように、主体性(自分らしさ)をもって人生を渡っていくのかは、ひと昔の日本のように、みんながやるから私も同じでいい、ではいかなくなり、自分の頭で考えていかないといけない比率は多くなりました。

“アイデンティティ拡散”を具体的見ると…

このアイデンティティ拡散している臨床像を見てみると、

①自意識の過剰 ②選択の回避と麻痺 ③対人距離の失調 ④時間的展望の拡散 ⑤勤勉さの拡散 ⑥否定的同一性の選択

①は人からどう思われてか、過剰に適応してみたり、それがいやになって離れて孤独に陥ったりすること。

②人生の選択において先延ばしにすること。

③人と距離感をどうとっていいか分からない、適切な距離が保てないこと。 

④生活の時間全体が間延びしていて、目標もなければ、時間感覚の喪失をいいます。 

⑤職業や学業に必要なコツコツした努力ができない、集中力が続かないなどです。 

⑥上の世代の価値観の軽蔑や否定して、ひと昔前なら、ぐれる、暴走族に入る、変わった病気になる(摂食障害、リストカット)などの逸脱行為に走る。

しかし、これらのことは、今は普通になってしまい、なんら目を引く現象ではなくなりました。で現代に出てきた変わった現象というのが、今のLGBTQと考えられるでしょう。

これを見て気が付くことは、主に、①~④は引きこもりや対人恐怖の人たちの特徴に当てはまりますし、③~⑤は発達障害と言われる症状と当てはまります。

つまり、今の発達障害と言われるものも時代の流れの中で見ると、70年代にはもう出てきているものということが分かります。今の“発達障害”はあきらかに診断インフレを起こしているといえます。

今の“発達障害”流行りに対する疑問

特にこの③は今の自閉症スペクトラム障害、発達障害と言われている臨床像と同じです。

今は特に、「発達障害ブーム」と言っていいほど、周りと同じことができないとみるとなんでも発達障害にしてしまっているように見えます。精神科医の斎藤環氏も本の中で今のこの現象を「発達障害バブル」と言っています。(注1)

このようなことは、人間の健康な心理や心、神経の発達には、必要な人間の情緒交流があるわけですが、現代ではその人間関係が希薄になり、

①自分の感情を親が札付けしてあげることができていない(母親だけでやらないといけない、あるいは母親もできてない)、

②情緒の交流を機械(テレビやゲーム)やテックに任せていること、

③学童期の同世代の子どもたちの交流が減っていること、

④そのため自己愛のの肥大化がおこしやすいこと、しかしその自己愛をやさしく、あるいは厳しく諫めてくれる父的な人間がいないこと、

⑤人間関係で成り立っていた、冠婚葬祭を福祉やお金のサービスで代替させていることなどの、産業化、都市化で、加速度的に進んで、人間関係が希薄化して、人間が疎外されているというのが理由です。

このように、現代の社会の急激な変化に伴って、19世紀にできた制度(学校、会社組織、家族、司法、行政など)が機能しなくなっているのに、その制度に無理に適応させていこうとするときに、このような子どもや若者の現象が現れてきているのであって、時代、世の中の変化を視野に入れた社会学的な視点を入れる必要があります。それがないと、すべてその人個人の問題になってしまい、自分が悪い、努力が足りない、あるいは先天的な遺伝の問題にしてしまう、悪しき自己責任論になってしまいます。

これを発達障害の診断名の下で、医療マターとして、脳の問題、薬の治療、さらには遺伝の問題に還元することに、わたしは疑問に思います。

“自分”をどうやって取り戻すのか

親密な人間関係を作る

どこにあるかわからない“本当の自分”を探し求めるということではなく、このような状況で、自分の主体性を取り戻していくかが大切です。

そのためには、前回にも書きましたが、人間の心の発達の原点である、私たちがもう忘れてしまった、人生初期の母子関係の情緒交流を再度体験する必要があります。お互いが相互に共感し、承認しあって初めて、自分はこのままでいいと思えることから自分の主体性が発揮されるからです。

ただ母子関係の情緒交流といっても、そのまま赤ちゃん返りするのではなく(育てなおしといって、極端に退行させて一緒に生活まで面倒見た、香川大学の岩月教授がいましたが、彼はセクハラで捕まりました。)、成人の大人として、自我の境界を保ちながら、情緒を交流させることが必要です。

現代のように、希薄化して、疎外されている人間関係を取り戻す必要があります。

ある程度の親密で濃密な人間関係を意識的に構築していくことが必要になります。

ITを使って場所を作ろう

では、親密は情緒の交流とは何かといえば、自己受容、自己承認されることです。この母子関係の情緒交流を、D.スターンは観主観性といいました。

この観主観性とは要は感情の共有です。つまり共感のことです。

この共感できる場をどう作るかですが、今でも自助グループなどがそのような場所を提供していますが、今はIT技術を使って、簡単に、そのような場所を作ることが可能になりました。

深い親密な関係を作れるかは、その使い方次第になりますが、人と繋がれることにかんしては10年前よりあきらかにハードルが下がっています。SNSやチャットグループを使って、同じ問題に悩んでいる人たちを、全国から、お金をかけずに、スマホ一つで集められるようになりました。

これは明らかに現代で生活するメリットです。この利点は大いに利用しない手はありません。

参考文献:

E.エリクソン、『自我同一性』小此木啓吾訳、誠信書房、1973年

『現代のエスプリーアイディンティティ』小此木啓吾編、至文堂、1973年

『現代精神分析Ⅰ』小此木啓吾著、誠信書房、1971年

(注1)

斎藤環、『「自傷的自己愛」の精神分析』、角川新書、2022年