引きこもり脱出作戦

引きこもり脱出作戦

引きこもり、対人恐怖、あるいは、AC(アダルトチルドレン)は他人の目や世間の評価を気にして、それに自分があっていないことを恥じて、引きこもります。その心理的メカニズムを自覚して、その世間の評価、価値観に自分を合わせていくことではなくて、この先何が起こるかを予想しながら、この世の中(世間)とわたっていかなければいけません。

引きこもり現象の歴史を見てみよう

見て観る前回にも書きましたが、この若者の引きこもりの現象は、モラトリアム期が長引いていることです。それは社会の流動化と人間関係の空白化、空虚化、疎外化が大きな原因の一つになっています。

この現象も経済発展があったから、つまり自分の生活が豊かになることを前提に、進んでいったわけですが、現代日本には、この先も、経済的発展はみられません。家族、学校、社会の空洞化、空虚化がどんどん進んでいきます。1970年くらいから、その矛盾やゆがみを表すものとして、子どもの問題(不登校、摂食障害、非行など)が出てきました。(注1)

家族、学校、社会(会社や就職先)が空虚すぎて、何のためにそれを維持するのか分からない、若者の現象や症状は、そんなものに適応するのはまっぴらだという象徴的な現れでしょう。

その若者が体現する現象の真の主張自体は真理を含んでいます。ですが、若者は無意識で、こういう行動(症状)を出していますので、理性では、こんな自分はいけない、世間で言われているような適応(学校に行かないと、就職しないとなど)しないといけない、できていない自分はダメだといって自己否定をしています。これが益々自分の中の力を奪っていきます。

何が自分から力を奪っているのか、構造的に、歴史的にる必要があります。そして必要以上に自己責任、さらには罪悪感から離れる必要があります。

このような社会の歴史の大きな流れをみれば、家庭も学校も社会も、今後さらに形骸化が進んでいきます。ですから、上の世代の言っている家族、学校、仕事にこだわるのではなく、その先を見据えて、どう自分がふるまうかを戦略を立てる必要があります。

(注1):

斎藤学著『カナリアの歌ー食が気になる人たちの手記』には、子ども問題、病気は社会(大人の社会)の矛盾や形骸化、空虚化、疎外化を表してるということが書かれています。カナリアは炭鉱で、人が気が付かないガス漏れを探知するために使われていました。それと同じように、社会の病理や矛盾を、摂食障害の少女たちは、病気で表現していて、その象徴として表していて、その表したいものとは何かが書かれている本で、上のような空虚な場所に過剰に適応している人たちへの鋭い批判として、摂食障害の意味を解明してる本です。

今の“家族”は当たり前なものなのか。

今後、現在のような、一夫一婦制を維持することは難しいでしょう。実際にこの少子化の波は止められていません。家族は何のためにあるのかといえば、子育てのための容器ですが、もうこの少子化はとめられませんので、家族を子育ての容器と考える必要もありません。

実際今後子育ては、最高のぜいたく“品”になります。子どもをただ生むだけでなく、よい物を食べさせ、よい物を着せ、よい環境を与え、よい教育を与え、よい学校に通わせられる人は、子育て自体が自分のステイタスですし、そのようなことができるのはほんの一握りになるからです。つまり少子化はさらに進んでいきます。昔のように“親がなくても子は育つ”時代は戻ってきません。

自分は引きこもりだし、収入もないし、結婚もできない、収入のない人間に家庭は出来ないし、子どもも生めないな、でもパートナーは欲しい。はオーケーなわけです。

であれば、二人(あるいは複数)の関係が良好であればいいのです。しかもその関係は、モノガミー(monogamy、一夫一婦制)である必要はないし、ポリガミー(polygamy、複婚)でもいい。パートナー関係には、同性婚、合同家族、通い婚、などいろいろな形態があっていいはずです。

しかし、制度ができるかどうかは別です。選択制夫婦別姓さえなかなか進まないのですから、現在の民法の家族法が欧米のように柔軟なものになることはないでしょう。国にお墨付きをもらうことで自分の性的アイデンティティを確認するのではなく、自分の中の性的志向、感情に従えればいいのです。

家を持ったり借りたりすることは、それなりの収入がないとできないわけです。実際に引きこもりの人は、仕事は出来ないで、実家にいる訳ですが、実家にいる者同士が、通い婚をしながら、パートナー関係を続ければ、それは新しい家族関係になるといえます(源氏物語を見れば、通い婚は日本の伝統であることがわかります)。親のいるところでセックスは出来ないとなれば、日本の誇る文化であるラブホ(ラブホテル)を活用できます。家族というのがはばかれるのであれば、パートナー関係でもいいでしょう。

“学校”は生徒のために存在したことはない

日本は、学歴社会です。一度ドロップアウトすれば、ほぼエスタブリッシュメント(体制側)に戻ることはできません。ですが、今の不安定な社会を見ればわかるように、今の一流企業が10年後どうなっているかわかりません。しかも日本は新卒一括採用なので、そこから外れた人の就職は、学歴社会から外れますし、さらにそれにエントリーできるのは、一流大学に限ります。

その少ない座席争いに参加しよう、あるいは参加できなかった自分はダメだと思う、この権威主義から離れないといけません。

引きこもりの原因になることが、受験の失敗や不登校に始まることが多いのですが、各人の心に巣食う、この学校コンプレックスがなかなか根強いのです。アニメやマンガでいかに学園物が多いかは、このコンプレックスを表しています。学校で“イケていなかった”自分を、いつか取り戻そうとずっと思い悩んでいるわけです。受験や勉強だけでなく、学校的なるものに、日本人は大きく影響(コンプレックス)を受けています。学園祭的、運動会的、部活的、恋愛前の男女(同性同士でも)のじゃれあい、そして恋愛、友情、仲間と一緒になにかをやりとげるなどなど、、、。このような学校的なものを大人になっても繰り返そうとしています。

しかし、はっきり言えば、学校自体は、教員やそれを管理する文科省のためにあるのであって、生徒のためであったことはないのです。そもそも学校とは近代国家が戦争に勝つため、富国強兵のために作られたものです。

さらに組織、制度は一度できると、それを維持するように働きます(学校だけでなく、病院、会社などの組織も)。名目上は、生徒のため(患者のため)といいながら、その組織を維持することが自己目的化されます。

ですが、学校真の目的である、学問をするということであれば、今のインターネット時代で、仕入れられない知識や学問はありません。YouTubeを見れば、世界最高峰の授業をタダで見れます。そこでいえば、学校の存在意義が問われていますが、教育制度学校制度自体は、そこで働く人たちの権益を守るために、変わることはありません。今後も硬直化したまま、存在し続けていることになりますが、そこに私たちが、いつまでもしがみつくことがおかしいことです。

大人は本当に“仕事”をしているのか

日本は、バブル崩壊以降、経済発展していません。つまり企業は利益を上げられていないのです。であれば、会社や企業のやっている仕事とは何でしょう。意味のない、無味乾燥な仕事、だれがやっても入れ替え可能な仕事、職場での人間関係の調整、自分のポジションの確保、のことを仕事といっているのです。実際、自分のやっている仕事がどう会社や職場に利益をもたらしているかがわかって仕事をしている人はいないとおもいます。

この構造は大企業と言われているところでも同じです。つまり、先に書いた、たとえ“恵まれた”家族に生まれて、“一流”の大学出て新卒採用されて就職しても、空っぽであることに変わりがありません。ステイタスを追いかけるのをやめ、権威主義的な思考を相対化していくことが必要です。

これから先は、日本の経済がますます先細っていくことは確かなので、そこへ適応していくことを目標とすることは沈んでいく船に、席を確保しようとするような、おかしな行動です。

では自分の食い扶持をどう得ていくのか、、、ここが問題なのですが・・・

いろいろな手段があります。貨幣経済活動にあまり巻き込まれないように、田舎で自給自足的な生活をする。一人で出来なければ仲間とやってみる。

引きこもりであれば、実家暮らしですから、生活費はかかりません。そこでSNSなどで、自分と考えや趣味の合う仲間を集めて、どう将来わたっていくか、楽しく人生を過ごすか作戦を練れる時間は大量にあります。ああでもない、こうでもないと作戦を練っている時間が人生です。

またこれは誤解がないようにいいたいですが、福祉制度を適切に使うこと、障碍者手帳、年金や、生活保護などを利用することも大いにありです。(ちなみに日本の生活保護の捕捉率は2割程度です。つまり生活保護をうけられるほどの貧困生活をしている方が8割もいるということです。)

日本の自殺者数は、先進諸国でも最悪です。少し前まで年間3万人を10年以上続けて超えていました。自殺の大きな原因に経済的困窮があげられます。今は2万人ほどに減っていますが、自殺者数の減少と、生活保護者の数が増加は関係があると思います。生活保護をもらって、命を長らえるほうがいいのは当たり前の話です。

自分は就職できていない、働かないといけない、と焦って、消えてなくなりたいと思って、精神の病を患うより、一旦、生活保護を取って、その自分を追い詰める超自我から離れ、自分を追い立てる心配や不安から離れて、落ち着いた心を取り戻して、そこから人生を眺めてみることは必要なことだと思います。

“仕事”“家族”“学校”の意味を再解釈しよう

引きこもりが悪いわけではありません。機嫌よく引きこもりであればいいのです。例えば、自分は介護資格を取って、実家で機嫌よく、年老いた両親の面倒を見ればいい。介護をしている(仕事をしている)世間への顔建もできますし、実家暮らしですから生活費をかなり節約できます。空いた時間を自分の好きなことをすればよくないでしょうか。

仕事をする、働く、お金を稼ぐ、経済活動をするという意味をもう一度解釈しなおさないといけません。たとえ生活保護でも、お金をもらって消費すれば経済活動です。お金を稼ぐといっても、先に書いたように、企業は利益を出せていません。国が紙幣を刷って水増ししてお金が稼げているように見せているだけです。

そして主な上場企業の取引先は、公官庁です。官公から仕事をもらっているというおとは、税金で売り上げを作っています。それでは資本主義の競争原理は働きませんしイノベーションは起きません。そのことは先のオリンピック利権のことみれば明らかでしょう。

働くこと=人として当たり前のこと、という前提条件を一旦カッコにいれて、自分がこの強迫観念にとらわれていることを、外から見てみる必要があります。

さらに地球環境的に見て、人口動態からすれば、日本の人口は江戸時代は3,000万人くらいで、明治に5,000万人、戦前の昭和で7,000万人となって、戦後に一気に1億2,000万人に人口爆発を起こしています。これの人口増加のおかげで、経済的発展ができたので、今後、経済発展が見込めない場合、人口減少は当然の現象です。

どんどん人口増加して大量生産、大量消費を繰り返していたら、地球環境そのものが持たなくなることは、地球温暖化などの地球規模の異常気象を見れば、明らかでしょう。

実際は7,000万人、自給自足できていた江戸時代の3,000万人規模が日本の国土には適した人口なのかもしれません。しかもそれくらいになったほうが今のはやりの持続可能な社会に適しています。

このように、家庭、学校、仕事というACにとって躓きの元になっている制度や考えを、一旦カッコに入れて(当たり前だという考えから少し距離を置いて)、時間(歴史)を将来へ伸ばし、先の日本の社会を見据えてみれば、それらは当たり前でも何でもないことが分かります。

本当は柔軟に変改していかないといけないものなのに、今の硬直化してしまっていることが分かります。その社会構造、考え方を逆手にとって、自分の発想を転換させて、楽しく生きていくことは可能です。

参考資料:

第32回日本嗜癖行動学会 岐阜大会 2022年 斎藤学『複雑性PTSDがICD-11に採用されたことに関する見解』